長篠の戦いで勝負を分けた鉄砲三段撃ちはなかった?

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wikipedia/長篠の戦い

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武田信玄病没後、跡目を継いだ武田勝頼と信玄の死後、足利義昭を追放し、朝倉・浅井を滅ぼし天下人として台頭してきた織田信長。信長の盟友である徳川家康を交え、織田・徳川連合軍対武田軍が長篠で戦ったのが、長篠の戦いである。長篠の戦いは織田・徳川軍の圧勝に終わり、武田信玄時代の重臣である山県昌景、馬場信春、内藤昌豊らは戦死。武田家は大ダメージ受け、滅亡へと突き進んでいく。山県昌景ら信玄時代の重臣たちは戦前、戦わずに撤退を進言したが、武田勝頼は受け入れなかったと言う。重臣たちは、その瞬間死を覚悟したそうだ。

長篠の戦いで勝負を分けた要因は、織田・徳川軍の鉄砲三段撃ちであると言われている。騎馬隊が侵入できないよう馬防柵を作り、柵の内側から鉄砲隊を3列配置し、次々に撃ったと言われている。武田軍は鉄砲対策が出来ておらず、馬が冷静さを失い、撃たれるままに散ったそうである。赤備えの山県昌景、不死身と言われた馬場信春、後に徳川を苦しめる真田昌幸、真田幸村を持ってしても、勝つことは出来なかった。

武田軍が敗北したことは紛れもない事実だが、「鉄砲三段撃ちによって敗北した」と言う事に関しては、反対意見も多い。武田軍が織田・徳川鉄砲隊の射程圏内に留まり、撃たれるままになるはずはないと言う意見がある。そもそも武田軍は銃撃を受けていないのではないのではないか、と言う説もある。武田氏研究会副会長で高校教師の平山優さんも、鉄砲三段撃ちは無かったと主張する。長篠の戦いと武田家を滅亡に追い込んだ武田勝頼にスポットを当てた書籍「長篠合戦と武田勝頼」で詳しく解説している。真実とは、一体何なのであろうか。武田勝頼は本当に無能だったのだろうか。

歴史は、常に「勝者が都合良く書き換えたもの」である。長篠の戦いにしても、その他にしても、「本当はどうだったんだろう?」と考えてみる必要がある。考えてみることが、楽しいのだ。500年以上経過した今でも、新しい発見はあるはずだ。

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