「日本中が秀吉に騙されてる」明智の子孫が語る“本能寺の変”の真相

Text by

  • 4
足成

足成

28日深夜放送のTBS『ゴロウ・デラックス』に、明智光秀の子孫でベストセラー「本能寺の変 431年目の真実」の著者・明智憲三郎氏が登場。「謀反人」の汚名を着せられた明智家の子孫・憲三郎氏が50年を費やし辿り着いた「本能寺の変」の真相とは?

光秀の謀反は、信長のイジメが原因?

1582(天正10)年6月2日、現在の京都市内に位置する本能寺で、織田信長が家臣・明智光秀に暗殺されたとされる「本能寺の変」。

街でインタビューされた人は揃って「信長にイジメられた光秀が謀反を起こした」と口にする。歴史の教科書にもそう書かれてあり、ほとんどの日本人はそれが真実だと思っているだろう。

明智光秀の子孫(光秀の側室が産んだ子の子孫と聞いているそう)で、「本能寺の変 431年目の真実」の著者・明智憲三郎氏は、「そういう先祖を持ったということで、辛くて辛くてしょうがなかった。仕事先でも名刺を出すと、『ああ、あの謀反人の?』と言われた」と、サラリーマン時代を振り返った。

しかし、憲三郎氏は「組織の責任ある立場の人間が失敗したら一族滅亡ですよね?恨みつらみレベルでそんな重大なことをしないよねっていうのは、誰しも思うこと。じゃあ、本当はなんだったの?ということが心の中にうまれて、本当のことを知りたい」と考え、サラリーマンとして働く傍ら、50年を費やし「本能寺の変」の真相について調べあげ、著書にまとめたという。

憲三郎氏が語る「本能寺の変」の真相とは?

■明智光秀は、織田信長から本能寺での徳川家康暗殺を命じられていた

憲三郎氏は「信長の先見性」を指摘。「天下統一後、信長の死後、織田家の天下泰平を当主の責任として果たさなければいけない。徳川家康はそれを脅かす一番の危険人物になる」と、信長は読んでいたのではないかと語る。

さらに「とてつもないことに思えそうだが、信長の後を継いだ豊臣秀吉は家康を排除しなかったため、秀吉の死後、豊臣家は滅ぼされてしまっている」と解説した。

憲三郎氏によると、家康お抱えの商人の記録に、当時、家康は堺(大阪)にいて、本能寺のある京を目指していたという記述があるという。また、光秀の家臣の覚書には「本能寺に行くのは、信長の命令で家康を討つためだと思っていた」という記述が残っているとか。

■光秀が信長を暗殺した本当の理由は「信長の野望」を阻止するため

天下統一後、信長はさらに唐(中国)を制圧しようと考えていたことが、「イエズス会日本年報」に記録されてあると憲三郎氏は語る。

「謀反を失敗したら一族滅亡ですよね?でも、その危険を冒しても、”謀反を起こさなければ滅亡してしまう危機”があったのではないか」と憲三郎氏は指摘。それが「中国制圧」という信長の無謀な計画だったのではないかと語った。実際、秀吉は天下統一後、朝鮮に出兵し、失敗している。

■信長暗殺に徳川家康が協力していた

光秀は、信長が家康暗殺を画策していることを家康に伝え、味方に引きいれたのではないかと憲三郎氏は語る。

■信長最期の言葉とは?

憲三郎氏によると、信長は死の間際「わしは自ら死を招いたというわけか」という言葉を残したと、スペインの商人が書いた見聞録「日本王国記」に記述があるそう。

■「本能寺の変」は、秀吉によって都合よく記録された

信長の死後、山崎の戦いで光秀を倒した秀吉。秀吉は、本能寺の4ヶ月後、家臣・大村由己に「惟任退治記」という歴史書を書かせ、そこに「光秀が恨んで信長を殺した」という記述があるという。

通説となっている「本能寺の変」の動機は、「自分の正当性を主張するために秀吉が書かせたもの」と、憲三郎氏は指摘。「問題なのは、今、日本中がこの通説を信じている。日本中が430年前の秀吉に騙されてる」と語った。

430年経って、織田家とは友好関係に?

憲三郎氏は、織田家の子孫(織田信成ではないそう)の方とは10年程前からおつきあいがあるそうで「殺した側なので気が重かったが、とても友好的な方で、両家のいい関係をこれから築いていきたい」と語った。

ちなみに番組の最後には「情報・見解はあくまでも明智憲三郎氏の説で、その真偽を確定するものではありません」とテロップが流れた。

「信じるも信じないも視聴者次第」ということだろうが、個人的には筋が通っていると感じた。でも、真偽が確定されない方が、いろいろ想像できて、より歴史ミステリーを楽しめそうである。

Posted: |Updated:

Text by

注目の記事

前の記事を見る

次の記事を見る

Ranking