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ナチスの寵児はユダヤの子だった!一杯食わせた写真家の勇気

YouTube/USC Shoah Foundation

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1935年、ナチスドイツによるユダヤ人迫害が日々過酷さを増していた時分、機知と勇気をもってこれに立ち向かった一人の写真家がいたことを、あるアメリカ人女性が伝えている。

「今では笑い話に出来ることです。でももしナチスが私の正体を耳にしていたなら、私は生きてはいないでしょう」とその女性、へシー・ターフトさんは語る。80年前、当時家族とベルリンに住んでいた彼女の写真は、「アーリア民族理想の赤子」としてナチス党御用雑誌の表紙を飾ることになった。党の誰一人、その子が実はユダヤの子であることを知らぬままに、である。

ゲッベルスに気に入られた、ユダヤの赤子の肖像

ターフトさんの両親であるレヴィンソン夫妻はラトヴィア出自。1928年にベルリンへと移住したが、ユダヤ人であったため特にナチス台頭以降は生活苦を強いられていたようだ。1935年、ちょうど6ヶ月になった娘の写真を撮ってもらおうと、当時知られていた家族写真家ハンス・バリン氏のところへ連れて行った。

撮影の数ヵ月後、夫妻は驚愕の発見をする。娘の写真があろうことかナチスの御用雑誌の表紙をでかでかと飾っていたのだ。どうやらナチスが宣伝のために行った「完璧にアーリア的な赤子」の肖像募集に彼女の写真も出され、宣伝相ゲッベルスによって採択されてしまったらしい。

応募に出したのがあの写真家であるのは間違いない。母親が問いただしたところ、バリン氏は答えたという。「(あなたたちがユダヤ人であることは)分かっています、けれど私はナチスを笑いものにしてやりたかったのです」。

アメリカへ移住、雑誌は資料としてエルサレムへ

以降も赤子の正体はばれることなく、事情を知らぬナチス党員たちはその愛らしい肖像写真が付された絵葉書を互いにやり取りしていたという。

一家は戦後アメリカへと移住。ターフトさんは現在、ニューヨークの大学で化学の教授職にある。赤子の時分の写真が載った例の雑誌は所有していたが、数日前にエルサレムのホロコースト記念館ヤド・ヴァシェムに寄贈したとのことである。

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