シェア

鴎外、リサール、デュボイス:19世紀末ベルリンに学んだ民族の志士たち

Wikimedia commons

Wikimedia commons

19世紀後半、帝政期ドイツ。西欧諸国の中では後発の立場であったドイツが宰相ビスマルクの政策をもって躍進、学術に関しても世界をリードしていた時代のこと。当時学問の中心地であった首都ベルリンに学んだ3人の留学生がいた。彼らの最たる関心は自国の民族に自立をもたらし、西欧列強に伍しうる民族精神を樹立することにあった。

軍医にして文学者、ベルリンには記念館も

その1人は日本からの留学生である森林太郎、後の鴎外である。

森鴎外(1862 - 1922)

鴎外がベルリンで学んだのは1887年から1888年。陸軍省の派遣による医学生としての滞在だったが、周知のように一方で西欧の文学・思想の吸収にも貪欲であった。帰国後はゲーテ『ファウスト』など西洋文学作品の翻訳紹介、『舞姫』や『うたかたの記』といったドイツ滞在体験をもとにした作品を世に著した。

Flickr_Claus Wolf

ベルリンには彼の滞在を記念した森鴎外記念館も設置されている。

35歳にして銃殺された、フィリピン独立運動の闘士

鴎外と同時期にベルリンに滞在していたのが、フィリピン出身のホセ・リサールである。

ホセ・リサール(1861 -1896)はフィリピン独立運動の闘士にして、今日も国民的英雄として同国で敬慕されている人物。マドリッドやハイデルベルクで医学等を学んだのちベルリンへ渡り、そこでスペイン語による小説『ノリ・メ・タンゲレ』を発表した。その表題はラテン語で「我に触れるな」の意であり、当時フィリピンを植民地化していたスペインおよびローマ・カトリック教会への激しい抵抗の意が込められている。

彼の思想と影響力を危険視したスペイン官憲は、ビスマルクの密偵であるといった容疑を着せたうえでリサールを逮捕。祖国の首都マニラに送致されたリサールは軍法会議にて死刑を宣告され、同地で銃殺刑に処された。その処刑地は独立後マニラ市民によってリサール公園と名づけられ、『ノリ・メ・タンゲレ』は今日もフィリピンの高校で必読書とされているという。

Wikimedia commons_OTFW

ベルリンにはやはり彼が居したイェーガー通りにリサールの記念碑が置かれている。

ゲルマン音楽の精神から、黒人音楽のルネッサンスへ

そしてもう1人、アメリカの黒人運動家デュボイスも19世紀末をベルリンで過ごした人物である。

W・E・B・デュボイス(1868 – 1963)はアメリカ合衆国公民権運動指導者にして黒人民族主義運動の先駆者。今日も存続する「全米黒人地位向上協会」(NAACP)の創立者であり、1919年にはパリでアフリカ系民族世界会議を主催するなど、黒人の民族意識向上に生涯をかけて尽力した。

ビスマルクについての演説とドイツ帝国鉄道についての論文で注目を集めたデュボイスは1892年、24歳のときベルリンに渡り、国民経済、社会学、歴史を学んだ。ベルリンで過ごした2年間は黒人としての差別に会うことも無く、学生生活を謳歌したようだ。

民族活動家としてのデュボイスにドイツ文化が与えた影響は、1903年に公刊された主著『黒人のたましい(The Souls of Black Folks)』に著しい。アメリカでの黒人の権利を問う同書はヘルダーやニーチェといったドイツの思想家の民族心理学に基づき、さらにその表題は『ファウスト』のせりふ「私の胸中には、おお、二つの魂が宿る」に拠る。ただしデュボイスのいう「二つのたましい(souls)」とは、「黒人」であることと「アメリカ人」であることだったが。

そしてもう一つ見逃せないのがデュボイスによるワーグナー受容。デュボイスはアフリカ系アメリカ人のアイデンティティーを今日ジャズやブルースとして知られる音楽様式に認め、民族精神の表れとして称揚したが、これを促したのは他ならぬワーグナーの民族主義的音楽観であった。ワーグナーと民族主義といえばどうしてもナチスとの関わりから悪しきそれを連想してしまいがちだ。だが私たちが良く知るアメリカの黒人音楽ルネッサンスをもたらす動因となったのもまた、デュボイスが19世紀ドイツに学んだワグネリズムだったのである。

Posted: |Updated:

Text by

前の記事を見る

次の記事を見る

注目の記事

Ranking